太田綜合病院の成り立ち
社会貢献を願って医学の道へ
「これからの郡山には貴賤を問わず地域の人々のすべてが医療を受けられる病院がなければならない。命は平等なのだ。誰しもが希求する命の持続を支え、よりよい医療の機会をえることができる病院を自らの手でつくり、誰にでも門戸が開かれた病院にしたい」明治28年(1895年)太田三郎は、郡山町中町に太田醫院を開業。これが一般財団法人太田綜合病院の始まりである。
創業者の太田三郎は須賀川出身で、福島県立医学校を卒業後、三郡共立福島病院や福島監獄で勤務したのち、医科大学(東大医学部の前身)に進み、国家医学部講習科を修了。幅広い医術への造詣を深めた三郎は郡山に戻り、太田醫院を開業したのである。
町になくてはならない病院 私利私欲より地域の利を
三郎には「たとえどんな時にも患者の求めに応じ対応しなければ、生命の大切さを標榜することはできない」という信念があったため、休診日はなく、往診も決して断らなかった。患者の状況に応じて、内科・外科・眼科・耳鼻科・産婦人科など幅広く対応したことが、より一層町の人々の信頼を得ることになり、太田醫院は地域に必要不可欠な存在となった。
三郎は地域医療の向上には、施設の充実と医療人の育成が重要と考え、郡山初のレントゲン室や静脈注射室の設置、親戚や知り合いの子弟に学費の援助を行った。治療費が払えない者も多かった当時、病院の収支は決して余裕のあるものではなかったが、三郎は私利私欲に走らず、地域医療の発展を最優先としていた。
戦火を乗り越え病院再建、法人化の道へ
第二次世界大戦による傷跡が太田病院の建物にも残り、修理もままならなく、粗悪な医療品が高値で出回るなど、再建の道は困難さを極めていた中で、郡山初の整形外科の開設やハード・ソフト面の改善などを実行。その中で、今後の病院組織のあるべき姿を考えたとき、法人化の問題が浮上。法人化は太田病院の近代化にとどまらず、地域医療の向上を視野に入れた対応が必要となることから、三郎は県内の主要病院の院長に声掛けをし、財団法人化に踏み切った病院へ訪問するなど検討を重ねた。しかし法人化を希求したものの、戦後の病院再建への課題が山積されていた時期だっため、先送りとなった。
三郎の意思を継ぎ、二代目に就任した辰雄は、三郎が懸案事項としながら実現できなかった法人化の問題に取り組んだ。戦後、GHQによる占領統治は様々な制度改革を断行し、新たな医療法が制定施行される気運にあった。新時代に即した私的病院の地域医療の推進には多くの困難と限界があることを痛感した辰雄は、県内の主要病院と連携し、財団法人化を図ることを決断。昭和26年財団化の申請書を県に提出したが、病院の法人化はほとんど例がなかったため、色よい返事は返ってこなかった。
月日が経ち、県の民生社会部課から「救急車を導入し、救急体制を整備するのであれば、財団化を許可してもよい」との打診があった。当時の郡山近辺には一台の救急車もなかったため、このような条件が付けられたと思われる。辰雄はこの条件を受け入れ、昭和26年10月6日付で財団法人太田綜合病院が許可されたのだった。
現在、多くの地方では国公立病院が中核的な役割を担っているが、郡山には公立病院がなく、財団法人病院が地域医療を担っている状態である。明治以来、郡山は民間病院が地域医療を守り続けている。このように民間病院が主体となっている地域は他に類を見ない。
地域医療の核としての病院づくりと組織改革、そして現在へ
創業者三郎が志した「地域医療のため」という精神は辰雄にも受け継がれ、財団法人の認可が下りてから、新しい時代にふさわしい地域医療を展開する取り組みに着手。無医地区に診療所を次々と開設し、公衆衛生の推進に努めると同時に、新生・太田綜合病院づくりを進め、運営管理のしやすい組織づくり、新たな診療科の開設、施設設備の近代化と拡充、スタッフの補強整備など精力的に取り組んだ。また地域医療向上のため、市内各地に開設した病院はエリアごとの医療ニーズに幅広く応えらえるよう総合病院化を図る一方、特殊な診療科や専門療法を採用することにより特色を持たせ、病院間の連携をとりつつ相互に補完し合える体制を目指した。昭和56年(1981年)には、国と県の要請に基づき県中・県南地区をエリアとする救命救急センターを開設。民間病院としては全国初となる救命救急センターである。
このように、創業者の三郎が地域にともした「命を平等に守る」という精神は受け継がれ、時代の要請に応えた地域医療の核となる病院として、現在に続く太田綜合病院の基盤が確立されていったのである。その精神は、今日において「私たちの誓い」という職員の基本信条としても受け継がれている。
創業者の信念「たとえどんな時にも患者の求めに応じ対応しなければ、生命の大切さを標榜することはできない」という言葉を胸に、我々はこれからも地域医療の発展に寄与してく所存である。
略年表
年 | 月 | 沿革 | 人事 |
---|---|---|---|
1895年 (明治28年) |
8月 | <安積郡>郡山町中町38番地に医院開設 | 院長:太田 三郎 |
1898年 (明治31年) |
10月 | 堂前病室落成 | |
1905年 (明治37年) |
6月 |
若松市大町の渡部鼎医師宅を借受け若松分院を開設 (1906年・明治38年3月閉鎖) |
年 | 月 | 沿革 | 人事 |
---|---|---|---|
1913年 (大正2年) |
レントゲン装置導入 | ||
1921年 (大正10年) |
4月 | 病院増改築工事竣工<洋風煉瓦造り> |
年 | 月 | 沿革 | 人事 |
---|---|---|---|
1931年 (昭和6年) |
本宮町共立本宮病院を経営(昭和16年7月閉鎖) | ||
1937年 (昭和12年) |
4月 | 副院長 太田 辰雄 | |
1946年 (昭和21年) |
8月 | 附属小磯診療所開設(平成8年3月閉鎖) | 所長 太田 豊 |
1949年 (昭和24年) |
11月 | 熱海町に太田診療所開設 | 所長 太田 舜二 |
12月 | 院長 太田 三郎没 院長 太田 辰雄 |
||
1950年 (昭和25年) |
12月 | 本院増築工事<第8病棟>竣工 | |
1951年 (昭和26年) |
6月 | 太田綜合病院と改称 | |
10月 | 財団法人設立許可 | ||
11月 | 病院組織を財団法人太田綜合病院と改組 | 理事長 太田 辰雄 副理事長 小方 文哉 副理事長 太田 緑子 |
|
1952年 (昭和27年) |
4月 | 附属赤津診療所開設(昭和38年3月閉鎖) | 所長 山崎 雅治 |
1953年 (昭和28年) |
3月 | 熱海(太田)診療所を附属熱海病院に改組 | 院長 太田 舜二 |
1954年 (昭和29年) |
5月 | 附属さが乃病院開設 | 院長 滝田 左武朗 |
9月 | 附属永盛診療所開設(昭和37年12月閉鎖) | 所長 高橋 正宏 | |
1957年 (昭和32年) |
5月 | 本院第1期工事竣工 | |
7月 | 附属桔梗保育園開設 | 園長 近藤 チヨ | |
1958年 (昭和33年) |
4月 | 附属准看護婦養成所開設(昭和52年3月閉鎖) | 所長 太田 辰雄 |
1959年 (昭和34年) |
4月 | 附属安子島診療所開設(昭和56年3月閉鎖) | 所長 安次富 誠二 |
1960年 (昭和35年) |
5月 | 附属上戸診療所開設(昭和47年8月閉鎖) | 所長 竹内 方志 |
1961年 (昭和36年) |
12月 | 本院第2期工事竣工 | |
1962年 (昭和37年) |
10月 | 高玉鉱山診療所開設(昭和48年8月閉鎖) | 所長 長谷川 義治 |
12月 | 附属ささはら病院開設(附属永盛診療所閉鎖) | 院長 井上 淳 | |
1963年 (昭和38年) |
12月 | 熱海病院第1期工事竣工<リハビリテーション発足> | |
1965年 (昭和40年) |
8月 | 熱海病院第2期工事竣工 | |
1966年 (昭和41年) |
1月 | 熱海病院を附属熱海総合病院と改称 | |
1967年 (昭和42年) |
9月 | 本院第3期工事竣工、附属高等看護学院開設 | 学院長 太田 辰雄 |
10月 | 熱海総合病院附属玉川分院開設<ナーシングホーム、ハーフウェイハウス発足>(平成11年6月閉鎖) | 玉川分院分院長吉田 道子 | |
1968年 (昭和43年) |
3月 | 附属鶴川診療所開設(昭和43年7月 病院新築完成し鶴川病院と改称)(平成 5年3月 閉鎖) | 院長 和光 寛明 |
1970年 (昭和45年) |
10月 | 熱海総合病院第3期工事竣工<リハビリテーション完成> | |
1971年 (昭和46年) |
4月 | 本院に福島県赤十字血液センター出張所開設 | |
1972年 (昭和47年) |
5月 | 附属鶴川桔梗保育園開設 | 園長 渡辺 信 |
1973年
(昭和48年) |
7月 | 研修センター・職員保養所として附属緑風苑開設 | 苑長 五十嵐 精 |
9月 | 附属熱海桔梗保育園開設 | 園長 遊佐 美寿 | |
1975年 (昭和50年) |
3月 | 本院院長 小方 文哉 | |
4月 | 高等看護学院学院長 小方 文哉 | ||
10月 | ささはら病院西ノ内地内に新築移転 (安積町のささはら病院閉鎖) |
ささはら病院院長 井上 淳 | |
1976年 (昭和51年) |
4月 | 高等看護学院に第1部<全日制>を新設、第2部<進学コース>を併設 | |
1979年 (昭和54年) |
10月 | 本院院長 吉田 赳夫 | |
1980年 ( 昭和55年) |
3月 | 副理事長 小方 文哉退任 | |
04月 | 副理事長 吉田 赳夫 高等看護学院学院長:稲垣 嘉胤 |
||
1981年 (昭和56年) |
1月 | ささはら病院東棟落成 本院第8・10病棟をささはら病院に移転 |
|
4月 | 本院に救命救急センター開設高等看護学院、専修学校に認可され附属看護専門学校と改称ささはら病院増改築工事竣工さが乃病院をささはら病院に移転(さが乃病院閉鎖)ささはら病院を附属太田西ノ内病院と改称 | 太田西ノ内病院院長 井上 淳 |
|
1983年 (昭和58年) |
7月 | 熱海総合病院第4次整備<増改築工事>竣工 | |
10月 | 理事長 太田 辰雄没 | ||
1984年 (昭和59年) |
2月 | 理事長 太田 緑子 | |
03月 | 本院・太田西ノ内病院が病院群として臨床研修病院に指定 | ||
11月 | 副理事長 稲垣 嘉胤 副理事長 太田 健三 |
||
1985年 (昭和60年) |
10月 | 病院創立90周年記念事業 | |
1986年 (昭和61年) |
1月 | 副理事長 稲垣 嘉胤没 | |
03月 | 看護専門学校校長 井上 淳 | ||
05月 | 緑風苑新築工事竣工 | ||
1987年 (昭和62年) |
4月 | 副理事長 吉田 赳夫退任 副理事長 稲田 豊 本院院長 稲田 豊 |
|
10月 | 桔梗保育園新築工事竣工 | ||
1988年 (昭和63年) |
6月 | 熱海総合病院第5期整備工事竣工 |
年 | 月 | 沿革 | 人事 |
---|---|---|---|
1989年 (平成元年) |
4月 | 福島県立須賀川養護学校郡山分校財団法人太田綜合病院訪問学級開設 | 須賀川養護学校郡山分 校分校長 小野 五郎 |
9月 | 太田西ノ内病院第3期整備工事竣工<本館オープン> 救命救急センター本院より太田西ノ内病院へ移設 |
本院院長 井上 淳 太田西ノ内病院院長 稲田 豊 |
|
10月 | 本院を太田記念病院に、熱海総合病院を太田熱海病院に改称 | ||
1990年 (平成2年) |
1月 | 太田西ノ内病院に老人性痴呆疾患センター開設 | |
2月 | 福島県赤十字血液センター出張所 太田記念病院より太田西ノ内病院に移設 |
||
3月 | 救命救急センターにドクターズカー配備 | ||
8月 | 病院創立95周年記念事業 | ||
1991年 (平成3年) |
4月 | 看護専門学校校長 三澤 敬典 |
|
6月 | 太田記念病院院長大野 昭二 副理事長 井上 淳 |
||
11月 | 太田記念病院に太田在宅介護支援センター開設 | ||
1992年 (平成4年) |
1月 | 熱海桔梗保育園、熱海桔梗寮新築工事竣工 | |
1994年 (平成6年) |
4月 | 太田西ノ内病院が臨床研修病院に単独指定 | |
7月 | 副理事長 井上 淳退任 副理事長 太田 舜二 太田熱海病院院長 高橋 昭三 |
||
1995年 (平成7年) |
9月 | 病院創立100周年記念式典・講演会及び祝賀会開催 | |
1996年 (平成8年) |
4月 | 太田記念病院院長 太田 宏 | |
5月 | 附属介護老人保健施設桔梗開設 介護老人保健施設桔梗に太田熱海在宅介護支援センター開設 |
介護老人保健施設桔梗所長 三浦 則正 | |
6月 | 副理事長 太田 舜二退任 | ||
7月 | 附属鶴川桔梗保育園新築移転工事竣工 太田西ノ内病院がエイズ拠点病院に指定 |
||
10月 | 太田記念病院内に太田訪問看護ステーション開設 太田記念病院に病診連携室開設 太田西ノ内病院が地域災害医療センターに指定 |
||
1997年 (平成9年) |
6月 | 副理事長 太田 保世 | |
1998年 (平成10年) |
4月 | 太田西ノ内病院に日本医療機能評価機構より認定証交付 | |
6月 | 太田西ノ内病院が臓器提供施設に指定 | ||
1999年 (平成11年) |
3月 | 鶴川桔梗保育園を社会福祉法人桔梗(ききょう保育園)に移管 | |
9月 | 太田西ノ内病院に地域医療連携室開設 太田西ノ内病院が開放型病院に指定認可 |
||
2000年 (平成12年) |
1月 | 太田記念ホームヘルプサービス開始(平成20年12月廃止) | |
3月 | 慢性疾患児家族宿泊施設ファミリーハウス桔梗開設 | ||
4月 | 太田記念病院にリウマチ・膠原病治療研究所開設 | 太田記念病院院長 阿部 隆三 太田熱海病院院長 太田 宏 太田西ノ内病院院長 太田 保世 リウマチ・膠原病治療研究所 所長 粕川 禮司 |
|
5月 | 太田熱海病院に介護療養型医療施設開設 | ||
7月 | 太田熱海病院に回復期リハビリテーション病棟、特殊疾患療養病棟開設 | ||
9月 | 太田熱海病院が開放型病院に指定認可 | ||
12月 | 太田熱海病院に日本医療機能評価機構より認定証交付 | ||
2001年 (平成13年) |
4月 | 介護老人保健施設桔梗所長 野崎 洋文 看護専門学校校長 藤田 靖 |
|
6月 | 副理事長 稲田 豊退任 理事長 太田 緑子退任 名誉理事長 太田 緑子 理事長 太田 保世 副理事長 太田 宏 副理事長 阿部 隆三 |
||
2002年 (平成14年) |
4月 | 太田西ノ内病院第4期整備工事竣工<5号館オープン> 附属看護専門学校新校舎竣工 校名を附属太田看護専門学校と改称 太田西ノ内病院が地域周産期母子医療センターに指定 |
|
9月 | 太田記念病院に日本医療機能評価機構より認定証交付 | ||
10月 | 法人事務局中町から西ノ内(看護専門学校跡地)へ移転 | 副理事長 阿部 隆三 没 | |
2003年 (平成15年) |
1月 | 太田記念病院院長 大和田 憲司 | |
11月 | 太田西ノ内病院が管理型臨床研修病院に指定 太田熱海病院が協力型臨床研修病院に指定 |
||
2004年 (平成16年) |
6月 | 介護老人保健施設桔梗所長 若山 宏 | |
2005年 (平成17年) |
7月 | 太田西ノ内病院腫瘍集学治療センター新築落成披露 太田熱海在宅介護支援センターが太田熱海病院へ移転 |
|
10月 | 病院創立110周年記念事業 太田綜合病院が次世代育成支援企業として福島県より認証 |
||
2006年 (平成18年) |
4月 | 郡山中央地域包括支援センター開設 (太田在宅介護支援センター平成18年3月制度上廃止) 熱海地域包括支援センター開設 (太田熱海在宅介護支援センター平成18年3月制度上廃止) |
太田西ノ内病院院長 堀江 孝至 副理事長 堀江 孝至 |
7月 | 太田綜合病院指定居宅介護支援事業所開設(4事業所統合) | ||
2007年 (平成19年) |
1月 | 太田西ノ内病院が地域がん診療連携拠点病院に指定 | |
2008年 (平成20年) |
4月 | 太田看護専門学校校長 上山 悦代 | |
7月 | 太田綜合病院介護保険事業所開設 | ||
12月 | 太田記念ホームヘルプサービス廃止 | ||
2009年 (平成21年) |
1月 | 太田綜合病院指定居宅介護支援事業所が太田西ノ内病院へ移転 太田綜合病院介護保険事業所が太田西ノ内病院へ移転 |
介護老人保健施設桔梗所長 須田 秀一 |
3月 | 太田記念病院閉院 | 太田記念病院院長 大和田 憲司退任 | |
4月 | 郡山中央地域包括支援センターが市内細沼町へ移転 | 介護老人保健施設桔梗所長 菊池 宏明 | |
2010年 (平成22年) |
10月 | 名誉理事長 太田 緑子 没 | |
2011年 (平成23年) |
6月 | 理事長 太田 保世退任 名誉理事長 太田 保世 理事長 堀江 孝至 |
|
2012年 (平成24年) |
4月 | 太田西ノ内病院院長 松田 信 | |
2013年 (平成25年) |
3月 | 太田西ノ内病院第5期増築工事竣工 <6号館オープン(4月)> |
名誉理事長 太田保世退任 |
4月 | 公益法人制度改革に伴い「一般財団法人」へ移行 | 太田看護専門学校校長 堀江 孝至 | |
2014年 (平成26年) |
7月 | 太田西ノ内病院院長 新保 卓郎 血液・リウマチ・膠原病治療 研究所所長 松田 信 |
|
2017年 (平成29年) |
4月 | 介護老人保健施設桔梗所長 渡邉 実 | |
6月 | 副理事長 太田 善雄 | ||
2018年 (平成30年) |
3月 | 太田西ノ内病院 腫瘍集学治療センター増築棟 落成 |
年 | 月 | 沿革 | 人事 |
---|---|---|---|
2019年 (令和元年) |
6月 | 副理事長 太田 宏退任 | |
7月 | 太田熱海病院院長 丹治 雅博 | ||
2020年 (令和2年) |
6月 | 理事長 堀江 孝至退任 理事長 太田 健三 太田看護専門学校校長 丹治 雅博 |
|
2023年 (令和5年) |
4月 | 太田西ノ内病院院長 髙橋 皇基 太田西ノ内病院特任病院長 川前 金幸 地域医療修練センター長 新保 卓郎 介護老人保健施設桔梗所長 大澤 義弘 |
|
6月 | 理事長 太田 健三退任 理事長 太田 善雄 副理事長 丹治 雅博 会長 太田 健三 |